SSブログ

アムステルダム(2) [旅行記録]

アムステルダム二日目は町歩きからスタート。

我々の泊まった宿は割と大きなカナルに面していて、部屋もカナル側に窓が開いていたので、窓から運河を眺めることが出来る。
Ams04.jpg
Ams05.jpg
まずはこの運河沿いを町の中心に向かって歩き出す。アムステルダムの旧市街はともかく歴史的な建物が多い。爆撃とかがなかった(のかな?)所為か、もしかしたら大幅に修復しているのかも知れないが、ともかくも19世紀の面影を多く残していて、となり同士くっついて、というかもたれ合いながら鉛筆みたいな建物のファサードが運河沿いに並ぶ。時々ゆがんじゃってる建物が結構あるのがおもしろい。
Ams06.jpg
例えばこのホテル。明らかに向かって右側に傾いてしまっている(隣の建物との間にある黒いマージンに注目)。アムステルダムの建物の特徴のもうひとつはファサードが窓だらけであること。間口はこんなに狭いのに、建物の奥行きは間口の3倍、下手すると5倍ぐらい行くだろうかというぐらい奥に細長く延びている。裏庭があるのかないのかは分からないが、側面は隣の建物とくっついてしまっているので、建物に光を取りこめるのはファサードに面した窓だけだというのが理由だと思われる。

アムステル通りをしまいまで抜けるとムントプレイン (Muntplein オランダ語、読み方が分からない... T.T) にでる。ここは17世紀に運河が拡張される前の旧市街への入り口だったところで、中世の時計台が残っている。
Ams07.jpg
一番上にカリオンがついているが、100年ぐらい前まではカリオン奏者がコンソールを操作していろんな曲を鳴らしていたんだそうだ。アムステルダムにはあちこちにこの手のカリオンがあって、あちこちからメロディーが聞こえていたとか。実際の音は聞かなかったけれども、博物館で記録の音源を聞いたりすると、何だか楽しげな感じでいいなと想像が広がる。

この時計台の向こうはショッピングモールになっていていろんなブティックとかが建ち並んでいる。その辺りをふらふらとした後、アムステルダム歴史博物館に向かう。
Ams08.jpg
歴史博物館の壁には古いレリーフがいくつかはめ込まれている。ギルドの「看板」の役割を果たしていたんだろうな、と思わせるものもいくつかあったが、全てがそうなのかどうかはよく分からなかった。
Ams09.jpg
これは、たぶん Jonge さんの Kooperslager (Koperslager) とかいてあるように見えるので、銅専門の鍛冶屋のプレートなんじゃないかと思う。
Ams10.jpg
博物館への裏手入り口もゆがんでるような... なんだか、こんな場所にいると、世界がゆがんでるんだか、自分の感覚がゆがんでしまったのか何だか訳が分からなくなる。

歴史博物館は、アムステルダムの歴史やオランダの歴史を豊富な遺物を用いて中世から現代までかなり詳しく説明している。ただ川しかなかったところに1000年頃に人が住み着き始めて、どのようにこの湿地帯に町が築かれていったのか、なんていう説明も面白かったが、なによりも、17世紀から18世紀にかけてがオランダ、従ってアムステルダムの最盛期であったということが改めて実感された。この時期のオランダの繁栄はオランダの東西インド会社が世界中で行った貿易・収奪行為によるものだ、というのが一般的な認識だが、博物館の説明によれば、この時期のオランダの富は、バルト海・北欧から西ヨーロッパ全体に流れてくる小麦のほとんどを中継していたことによるらしい。アムステルダムにはたくさんレンガ倉庫があり、そこには小麦が一杯につまっていたということだ。まあだからといって、東西インド会社の経営は見過ごすことの出来るようなものではないし、如何に悪辣に儲けたのかということも展示の端々から伺える。説明のビデオの中で「東西インド会社の違いは、奴隷貿易を行ったかどうかである。西インド会社はアフリカ・アメリカ大陸と欧州の間で奴隷貿易を行っていた(いわゆる三角貿易)のに対して、東インド会社は奴隷売買には手を染めなかった」と。でも、東インド会社もアジアで現地人を使役徴用して植民地経営を行っていたのだし、そこから連れてきた子供を小間使いにしたりしていたのだから、そう主張することにどれほど意味があるのかよく分からないけれども.....

後は面白かったのは、運河の底を掘り返していろんなものが出てくる話の展示だろうか。ゴミや糞尿を捨てたりするので、いろいろな生活用品や、ひいては、当時の人々がどんなものを食べていたかまでかなり詳しく分かるらしい。近現代のオランダ・アムステルダムについての展示もかなりのボリュームで、博物館を見終えたときには昼食時を大幅に過ぎてしまっていた。ガイドブックに載っていたカフェに行って、遅めの昼食をいただく。

その後は、町歩き。
Ams11.jpg
ダム広場。ここが旧市街の中心地で、奥に見える建物は王宮である。昔、アムステル川をせき止めるダムを造って町の中心にしたから Dam というのだそうだ。Amstel 河の Dam だから、Amsterdam というわけだ。今となっては何がダムなんだかよく分からないけど。ダム広場の奥には Nieuwe Kerk (新教会)。
Ams12.jpg
現在はもう教会としては使われておらず、博物館になっている。古いオルガンが立派みたいだけれど、現代芸術か何かの展示のチケットを買わなければ中に入れないので、入り口からちょっとのぞいて終了。
Ams13.jpg
ダム広場の奥手にある旧郵便局。いまはショッピングモールか何かになっているようだ。

ここから旧市街を抜けて、17世紀以降に作られたカナルを、「アンネフランクの家」を何となく目指して散歩する。
Ams14.jpg
アンネフランクの家の前には行列が出来ていた。建物も狭いし、ちょっとずつしか入れないのはよく分かるけれど、そこまでしてみることもないか、といってパスすることにした。というか、僕なんか、アンネの日記自体読んだ事がない。

この日の夜はオペラ観劇の予定だったので、体力を温存しつつ、ホテルに向かいながら町をふらふらと歩きまわる。
Ams15.jpg
途中で見つけたボタン屋さん。看板もさることながら、扉の取っ手までボタンになっているのがとってもナイス。

夜はホテルで少し休んでからオペラへ。オペラ劇場は、ホテルから運河を挟んで目と鼻の先。
Ams16.jpg
今回の演目は、フランチェスコ・カヴァッリの Ercole Amante(恋するヘラクレス)。オウィディウスの変身物語にも出てくる、ヘラクレスが息子の恋人に横恋慕して妻の嫉妬を買ったために死んで、神になるまでの話に取材している。
Ams17.jpg
この作品は、ルイ14世がスペイン=オーストリアのマリア・テレジアと結婚した時に、イタリア出身でカヴァッリを贔屓にしていた宰相マザラン卿の求めに応じてかかれた作品で、ルイ14世を明らかにヘラクレスになぞらている。このとき、まだ若かったリュリがオペラの終結部のレシと、オペラの中で用いるバレーを何曲か作って「合作」したのであるが(そのせいでずっとイタリア語で話が進んできたオペラの最後の数分間だけ急にフランス語になるという奇っ怪な現象が起きる)、これが後のリュリの一連の叙情的悲劇の創作への出発点のひとつになったことでも興味深い作品である。
Ams18.jpg
劇場は結構大きな戦後の建築で、それ自身には対して興味がある感じではない。演奏はといえば、なかなか悪くない演奏だった。指揮者の Ivor Bolton という人物(イギリス人?)はそんなにさえている感じじゃあなかったけれど、前日のタコ踊りの指揮者よりはマトモだったし、歌手のレベルもそこそこ高く、ピットに入っている楽器奏者のモチベーションが高そうなのも良かった。弦楽器は、バロック後期から古典期のオペラの上演で時々名前を目にする Concerto Köln で、コンマスにはエンリコ・ガッティを呼んできていた。それよりも何よりも目を引きつけられたのは通奏低音の人々だ。テオルボ・バロックギター持ち替えの撥弦奏者が3人、ガンバ奏者、ヴィオローネと指揮者を含めると3人の鍵盤奏者が通奏低音を担当していた。これだけの豪華な通奏低音というだけでそれなりのものであるが、ガンバと撥弦楽器の奏者は、初期〜中期のバロックにおける通奏低音を担当するグループをどうも作っているらしく、集中力の高さが違っていたように見えた。いずれにしろ、定番化しているオペラの上演ではリハーサルもそこそこにしかやっていないのだろうか、やっつけ仕事的な演奏がピットから聞こえてくるときもしばしばなので、ピットの面々が一生懸命弾いている姿は割と新鮮だったかも知れない。

Ercole Amante は、現在は入手困難なミシェル・コルボかなんかのレコードしか録音がないので、ろくに予習が出来なかった上に、オペラ劇場の字幕はオランダ語だから、筋書きを正確に把握することにはかなり困難をきたしたけれども、ヨーロッパに来て初めて聞きに来たバロックオペラだったということもあってかなり満足できた。(つづく)
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。