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「保守主義とは何か」 [評論]

以下は宇野重規「保守主義とは何か」(中公新書)を読んでの読書感想文.

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

  • 作者: 宇野 重規
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/06/21
  • メディア: 新書


保守主義とは何か,これはつとめて現代的な話題である.「保守」という言葉の意味する内容は話者や場面,コンテクストに依存して多岐にわたって発散している状況の中で,保守主義の源流と現代における諸相を「保守主義の本流」へのまなざしという観点から切り取った書物である.簡潔に論点が整理されておりとても読みやすく,全体的には良書であるように思う.

この本の中で,著者は保守主義の源流は18世紀イギリスのエドマンド・バークにあるとし,バークの思想を基準として保守主義を
(1) 具体的な制度や慣習を保守し
(2) そのような制度や慣習が歴史の中で培われてきたことを重視し
(3) 自由を維持することを大切にし
(4) 民主化を前提にしつつ,秩序ある漸進的改革を目指す
ものとして「再定義」しようと試みる.

ごく大雑把に考えるところ,バークはそもそもフランス革命が目指した封建社会国家の破却を前提とした国家・社会のゼロからの再構築に対して異議を唱えたのであった.フランス革命史,あるいはロシア革命以降のソビエト連邦や東欧諸国の歴史などを知る今日を生きる者としては,ルイ16世が断頭台にかけられる以前の段階で,破壊的暴力としての革命に反対したバークの論旨には一定の先見性があったことには素直に同意できる.ソ連邦の崩壊,中国の資本主義化から相当の時間を経た今日においては,民衆の実力行使による破壊的な革命が最善の手段だと真剣に考える者は極めて少数であろう.そういう観点からすれば,上の「保守主義」の「再定義」は妥当なものにも見えるし,非常に穏当な主張のようにも見え,「いいじゃない,保守主義」と言ってしまいそうですらある.

しかし,立ち止まって3秒目をつぶると何とも言えない違和感,腑に落ちない感覚が残る.思うところ,私のこの違和感の理由は二つあるように思う.

一つは,保守主義が「保守する」対象が本当は何なのかという問題である.著者は用心深くもその対象は「制度や慣習」であると規定しており,裏をかえせば,思想的主張や価値観は保守されるものの対象ではないと言いたげである.しかし,言葉は悪いが,これは姑息な小手先のマニピレーションに過ぎないように感じる.なぜならば,「制度や慣習」の裏には必ずそれを正当化する理屈や価値観,より大げさに言えば,思想や言論があるからである.

たとえば,性役割の問題を考えたらどうか.男性は外で働き,女性は家庭を守る.そのようなありかたはせいぜい産業革命以後のごく近代的な,歴史の浅いものだともいえるが,有史以前の人間社会においてさえすでに男性は狩りをし,女性は子守をしながら採集などなどを行うといった慣習があっただろうことを考えれば,その具体的な形は何であれ,性役割分業は「歴史の中で培われた制度や慣習」のなかでも最も強固なものだともいえるだろう.しかし,性役割分業は女性差別の問題,あるいは,女性蔑視の価値観と強く結びついており,現実の社会の在り方を考えればこれらは密接にして不可分なもの,一体のものとして捉えないわけにはいかない.上記定義の保守主義を是とすれば,「女性が家にいて家事労働をするのは歴史の中で培われた習慣であり,それには尊重すべき意味がある.だから女性は家で家事と子育てをしていればいいのだ」というような主張を許容すべきである.あるいは,もう少しマシな主張として想定できる「男女平等は必要だが,民主的に秩序ある漸進的改革を行うべきであり,人工的に急激に社会の仕組みを変えようとすべきではない」というような議論にも与するものである.だがしかし,個人的にはこの二つは許容不可能な主張だ.なぜなら,一人の女性が自分の生き方を追求しようとしたときに,それが「歴史の中で培われた慣習」であろうがなかろうが,セクシズムは女性が自分だけの,一度きりの人生を後悔なく生きることの障害にしかならないということはいくらでもありうることである.それを「漸進的に」改革するといわれても,そんなものはほとんど役には立たない.光陰矢の如し,人生はあっという間に過ぎ去ってしまうからである.待機児童問題がある.これを漸進的に,10年かけて改善しましょうなどと言ったら,今生まれた赤ん坊は小学生になってしまうし,35歳の母親は45歳になってしまうのである.一人一人の人生は待ったなしであるから,ことと場合によっては「漸進的改革」は「現状で我慢しろ」ということとほとんど変わりがない.そうしてみると漸進的改革の重視というのは,単に「現状における強者による支配の論理」に優しげな衣をかぶせたようなものにしか見えない.この類の問題,すなわち一人一人の人間が自らの生を追求する権利と尊厳にかかわる問題は「漸進的改革」にはそぐわない.マイノリティー差別や所得格差などの問題もこの類である.そもそも,漸進的改革は,社会や政治・経済の基盤を破壊しないための必要条件でも十分条件でもないのである.

もう一つは,歴史の中で生まれた慣習や制度,というのをどういう射程で切り取るのかということには恣意性・任意性があるという点である.英米の「保守本流」の思想家たちは啓蒙思想が過剰に人間理性への信頼に基づいていることを批判したらしい.そのことはそれ自体としては的を射ている面もあるだろう.しかし,冷静になって考えれば,「理性偏重の啓蒙思想」にもすでに200年以上の歴史があるのである.現代の立憲民主主義の立場は,この本の中でもそう述べられているように,好むと好まざるとにかかわらず,さかのぼれば18世紀の啓蒙思想にたどり着くほかない.それどころか,革命思想や社会主義・共産主義の思想にも,切り取り方によっては,それなりの「長い」歴史があるのだ.保守主義者はソ連邦の崩壊によってこれらの左派思想は自然選択的に淘汰されたと総括するだろうが,必ずしもそうとは言えない.ニューディール政策以降,資本主義国家においても国民への福祉の充実が図られたこともまた事実であり,これは見方によっては資本主義の社会における社会主義の部分的な「内部化」であるとみなせる.資本主義国における社会保障制度もまた「歴史の中で培われた制度」であり,その後ろには思想としての社会主義が背景として,しかし厳然として控えている.我々は,それぞれの地域や国家の「伝統」と称する慣習や社会制度を「保守」の対象とするならば,啓蒙思想や社会主義思想・革命思想やそれらが我々の社会にもたらした帰結をも「保守」の対象として,等しく,確かに含めなくてはならないはずなのは極めて明白である.

たとえば,日本の憲法にまつわる議論を見ればこの「恣意性」は明らかである.日本国憲法は,確かに敗戦とその後の米国の極東戦略の中で生まれたものであるかもしれないが,実際には中学校でも習うように,その考え方の根源はやはり18世紀ヨーロッパの啓蒙思想へとさかのぼるものであり,様々なレベルで「歴史の中で培われた制度」であると評価されるべきものである.アメリカに押し付けられた,とはいうけれど,たとえそれを認めたとしても,それにはそうなっただけの歴史的な経緯があったはずである.その経緯の重さを意図的に矮小化して日本国憲法の正当性を棄却するのは「歴史の中で培われた制度」を尊重する態度とは言えない.それどころか,70年以上の長きにわたり,日本のきわめて大多数はこの憲法に信頼を寄せ,これに強く反対することなく受け入れてきたという歴史がある.しかも,そのような幾重にも「歴史の中で培われた制度」としての日本国憲法を擁護し「保守」しようとしているのは,旧社会党や共産党を代表とする,筋金入りの左派なのである.上の定義に従えば,彼らこそが,少なくともこの論点に関しては,日本における「保守の本流」であり,改憲を訴える右派の政党・論客はすべて反動的革命的扇動者ということになってしまう.

つまり,この本で採用されている保守主義の「再定義」において「歴史の中で培われた制度を尊重する」ということは実際には大した意味をなさない.それは何が歴史的に培われた重要な制度・習慣であり,何が一時的な流行・熱病の類であるとみなすかによってその意味するところが180度変わってしまうからである.そこで仮にこの部分を削除したとしよう.すると何が残るか.それは「漸進的改革」であるが,これもまた問題の性質によっては,現状肯定に基づく社会的強者による遅延工作を支える論理として作用してしまいかねない.だから私としては漸進的改革のドグマも削除せねばならない.つまり,私が見るところ,結局は社会や政治・経済の基盤を破壊してゼロから再構築しようとするラディカリズムに反対する部分だけが残り,これについては一定の意味が認められる.なぜならば,何かを良くしようとして我々の生活空間が焦土と化してしまうのでは,物事はかえって困難にしかならないからである.それは,戦争に反対するのと同じような,きわめて単純かつ明白な理屈だと思われる.しかし同時に,それだけの自明な主張にはわざわざ「保守主義」などという名前を付ける必要はなく,せいぜい「穏健主義」とでも呼ぶべきものじゃないかと思う.そういう穏健さは,主張の内容にかかわらず誰しもが市民として心得るべき「徳目」のようなものに過ぎない.

尤も,この本の著者もこのような論点を単純に見過ごしているわけではない.「終章」においてジョナサン・ハイトやジョセフ・ヒースを参照し,「保守主義」と「進歩主義」の対立が,理性的思想的対立ではなく,単に感情的な対立になっているが,複雑かつ高度に―それこそ歴史的経緯によって―構築されている現代社会においては,感情に突き動かされるままふるまうのではなく,合理的な思考に基づいて行動することが必須となる場面が多くあること,更には,進歩的リベラリズムの退潮によって保守とリベラルの近接がおきている(それどころか上に述べたような逆転さえおきているわけだが)ことにも触れている.現在のような形で本になったのは,出版社の編集者の意見によるところも大きいのではないかと想像してしまうが,うがちすぎだろうか.

つまるところ,我々が直面している今日の混乱というのは,保守とリベラルという二分法にかかわる問題ではなく,合理的,論理的,あるいは思想的な省察に基づいた行動をとるという近代の原則が,もはやまだるっこい,といって放棄されようとしているところにあるのではないか.著者が「本来の保守主義」の復活に寄せる期待は,むしろより単純なこと,すなわち,有権者でありまた経済的な行動主体である市民たちが,穏健で合理的な思考に基づく行動への信頼を取り戻すことへの期待に他ならないのではないかと思われてならない.

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