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天皇の「お気持ち」を空想する [評論]

天皇が退位の意向であると突然に報道されてからしばらく時が経った.表向きは,高齢のために公務の負担が重く感じられるようになったからだと言われる.それに対して,復古的思想の右翼を中心に,「現在の制度には『摂政』があるのだから,それで天皇陛下の負担を軽減できるはず」というような発言も聞かれた.しかしこれは大変失敬な話で,天皇が現在の皇室典範に摂政の制度があることを知らないはずがない.それでもなお,あえて「退位」の意向をにじませることには,それ自体に意味があるはずだと考えるのが妥当ではないだろうか.

この問題はつとめて天皇の「天皇観」にまつわる問題ではないだろうか.そこで,天皇の「お気持ち」をあれこれ空想してみる.

天皇は生まれてから56年の歳月を「皇太子」として過ごした.父親である昭和天皇は,色々な意味でキャラクターの強い人物であったし,なによりも軍国主義のシンボルとして祭り上げられ,人間宣言を経て象徴天皇になるという荒波をくぐり抜けてきた人物である.皇室のメンバーはいわゆる「公務」でどこに出かけても国民から歓待される.涙を流してありがたがる老人もいるだろう.皇太子時代の天皇の立場からすれば,父天皇がそのようにありがたがられることには,様々な明白な理由があるように見えたのではないだろうか.昭和天皇はかつて「現人神」であり,国家的神道における最高の宗教的崇拝の対象であったのであり,敗戦後もその名残としての天皇崇拝が残っているのだ,という考え方は排除しがたい.皇太子の立場で公務に臨んで歓迎されるのも,自分が天皇の,元現人神の息子であるから,というような簡単な理解も可能であったろう.

しかし,昭和天皇が崩御し,自ら自身が天皇となって,天皇としての公務で多くの国民と触れることになっても,人々は彼を天皇として歓待し,ありがたがる.今上天皇は即位した瞬間から,あるいは子どもの頃から象徴天皇であることを運命づけられていたのであって,かつて一度も神であったことはない.それなのに人々が彼をありがたがる理由は,実は不明確である.それが日本の「伝統だから」,「国柄だから」というような平易かつ陳腐な説明はいくらでも存在する.しかし,それは日本国憲法下で,崇拝の対象ではなく,日本の国家と国民統合の象徴として規定された「天皇」であるということが一体全体どういうことなのか,その具体的な意味について実感を伴って説明するものではない.特に,ほかならぬ天皇自身にとっては.

今上天皇は公務を大切にし,非常に多くの国民と会ってきたと言われる.天皇自身にとってそれは,自分が天皇であることの意味,自分が天皇であるという前提で何をなしうるかということを追求する営みに他ならなかったのではないかと空想できる.そして,今日においては,天皇は,下々の国民と触れ合い,その声を聞くという営みとしての公務を,「天皇として」生きている全ての瞬間において果たしていくことによって,初めて自分自身が天皇たりうるという,実存主義的な天皇観に到達したのではないかと想像できる.象徴としての天皇を必要とする国民がいて,必要とされる天皇である自分の存在を毎日確かめることによって初めて自分が天皇でありうる.それこそが,日本国憲法に定められた「象徴」としての天皇のアイデンティティーなのだと.そう考えれば,「象徴としての天皇の地位と活動は一体不離」という天皇の発言がよく理解できる.自分が天皇の地位に留まったまま,公務の多くを摂政にまかせているのでは,天皇であることのアイデンティティーが保てなくなる,そう言っているのではないか.

天皇の政治的な発言は禁じられているという.しかし,自らが「天皇」であるところの天皇自身が,天皇のアイデンティティーについての考えを述べ,主張するということは,天皇個人の問題であって,それが「政治的なことだ」というのは全く筋違いに思えてならない.それが政治的なことに見える人間というのは,あくまでも天皇を政治イデオロギーの道具,権威と権力の源泉としてしか見ておらず,天皇が天皇でありつづけていくという営みそのものに固有な意味というもの,天皇の生それ自体を圧倒的にないがしろにしている.

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