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冬のベルリン(2) [旅行記録]

ホロコースト・メモリアルを後にして、更に南に下ってポツダム広場へ。ポツダム広場でも、かつてはその真ん中を壁が横切っていた。現在はその跡地に壁の展示がある。
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その裏手はソニーセンター。Ber13.jpg
ガイドブックには必ず載ってるスポットだけど、何がすごいのかよくわからん...

レゴブロックで作られたキリンさんが置いてある。
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かわいい。小さいブロックで作られたしっぽが秀逸。
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もう少し足を伸ばしてフィルハーモニーの建物を外から見物。体、とくに足がヒエヒエになってしまったので、フィルハーモニーの音楽博物館はスキップしてソニーセンターのダンキンドーナツでドーナツとコーヒを食べながら回復を図る。

じゃあとりあえず、チェックポイント・チャーリー、行っとこうか、有名だし、という話に。自転車を走らせていくと、途中でまた壁の残滓があらわれた。
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よく見ると何か展示をしている。これは、Topographie des Terrors という展示で、ゲシュタポとSSが何を行ったかについての展示だった。壁沿いの半地下の部分にボードがずっと並んでいる。
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これがまたショッキングというか、大体知ってる話ではあっても、ナチスの時代というのは恐ろしい時代だったのだなと再認識させられる。恐ろしいというよりは、気持ち悪いといった方が正しい感覚だろうか。

何故こんな場所に展示があるかといえば、ここがナチス時代にゲシュタポやSSの入っていた建物のあった跡地だからだ。ボードが設置されている壁面は、秘密警察が使用していた地下室の壁である。ベルリンが陥落したときには建物自体は崩れ去っており、壁沿いのこの場所は西ベルリンに属していたがずっと土がかぶされて空き地になっていた。この場所を1986年頃から掘りおこしたときに、ゲシュタポの建物の地下の構造が現れたというわけである。しかし、何故またこんなふきっさらしに展示をしているのか。実際、展示の分量も相当なもので、ボードを全部見終わるまでに2時間ぐらいはかかったろうか、さっきブレークを入れたのに、またもや完全に体が冷えてしまった。実は、現在こういう展示の形態をとっているのにも理由がある。この場所に現在と同じような内容の展示をするための博物館を造る計画は東西統一直後からあって、1993年のコンペティションに勝ったスイス人の建築家の案に沿って博物館が造られることになった。しかし、建築が進むにつれ、(僕の理解が正しければ)この建築家の案に沿った構造をに必要な強度を実現するには通常とは異なるコンクリートを用いなければならないことがわかり、当初の予算を大幅に上回る費用がかかることが分かって、工事は中断。反対運動なども起きて、結局2004年にこの博物館の建築案を白紙撤回して、既に作った部分は破壊されることとなった。それからもういちどコンペティションがやりなおされて、現在はこのコンペティションの優勝者の案に沿った建物が建設中である。展示そのものは説得力のある当時の写真とそれに対する客観的な解説によって構成されており、非常に優れたものだといえる。ちなみに、展示の内容は、寒空の中震えながら見なくても、カタログに展示の内容のほとんどが網羅されている。

チェックポイント・チャーリーまで移動したころには1時半ごろだったろうか。適当なイタリアンの店に入って昼食をとる。ミネストローネで暖まる。
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このチェックポイント・チャーリーを見下ろす場所に、壁の博物館 Mauer Museum がある。一人12.5ユーロという"法外な"入場料を払って中を見る。確かに、壁の歴史、特に、東ベルリンから様々な方法で脱出を試みた人々にまつわる資料がたくさん展示されておりそれ自体は非常に興味深いものではある。しかし、この博物館が私的に運営されているもののためであろうか、たとえばガンジーの非暴力抵抗がどうしたとか、およそ壁とは直接関係ないような展示もふくめて、あらゆる資料が雑然と展示されているのがいけない。壁が健在であった時代に、今博物館の入っている建物の一室からスタートした博物館が寄付などによって徐々に拡大していった結果そうなったのだろうことは容易に想像できる。モノそれ自身が語る歴史があるということに反対はしないけれども、個々の資料(とそれに加えられている解説)が語る物語が、2つのベルリンを壁が隔てていた時代そのものが何であったのかというより大きく根本的な問いに向かって像を結ぶような方法で展示されなければ、ただ単に「東の人はいろんな奇想天外な方法を使って逃げてきたんだなぁ」といって終わってしまうだけである。ベルリンの分断が過去のものとなってからもう20年近く経った今日においては、分断時代のプロパガンダ的テイストから抜け出せていない現在の展示は根本的に改善の余地があると思う。

チェックポイント・チャーリーの向こうには東独の検問所があった。

(写真:wikimedia commonsより。詳細情報はリンク先参照)
この、高速道路の料金所をうんとごっつくしたような、あるいは、車で空港に入るときの検問所のような、とでも言うべきであろうか、この検問所はおそらく世界で一番厳しい検問所のひとつだったのだろう。X線で車の中を透視するような設備まで備えていたという(車や機械のすき間に身を隠して東側から脱出する例が絶えなかったことから)。今では、こんな検問所も、デスストリップもあとかたもなく消滅していて、検問所の跡地には何事もなかったように各種の商店が建ち並び、クリスマスの飾り付けが楽しげな雰囲気を醸しだしているのが空々しい。

この後ナチスのヘッドクウォーター跡地や、ヒトラーの地下室跡を見物。ヒトラーの地下室跡は、ネオナチの"聖地"に成ることを恐れて最近までその場所が公にされていなかったという話だ。現在では、跡地にボードが建てられて、その場所を確認することが出来る。ソ連時代からこの地下室を壊そうとする努力は続けられ、最近もアパートメントを建築するために地下室の構造を破壊しようとしたそうだが、あまりにもコンクリートの壁が頑丈であるために壊すことが出来ず、地下室のあった場所の上だけは駐車場になっている。

この近くに、シュタージ(東独秘密警察)の展示があるというのでそれを見に行く。壁崩壊以降、末期の東独では、シュタージの活動の記録を組織的に抹消しようとしていたようだが、1990年の統一後、それらの書類やその断片はひそかに西側に運び出されたらしい。これは、西側の情報機関が、シュタージが西ドイツでどの程度の活動を行っていたか、あるいはスキャンダルになるような情報が漏れることを恐れたからだとも言われているけれども、やがて、旧東側の市民たちが、シュタージの犠牲になったと思われる人々が被害を受けた証拠の開示を求めて運動を始めたため、残っている、あるいは断片から復元されたシュタージの記録は連邦当局によって本人に対してのみ公開されることとなった(そのことで、自分の配偶者や身内がシュタージの協力者であった事を知り、家族関係が壊れる例などもあったようだ)。僕たちが訪れたのもこのような事情から作られた展示のひとつであったようで、展示は国費で行われており入場料はタダであった。ただ、展示は完全にドイツ語のみで行われていたので、パネルに何が書いてあるのかはほとんど分からなかった。シュタージが盗聴や盗撮に使用した機械や、旅券偽造のための各種スタンプセットなどが展示されていたが、一番印象に残ったのは、郵便の検閲に関する展示である。東ドイツの郵便局を通過する郵便は、郵便局に常駐するシュタージの職員によって漏れなく検閲された。それ自体はそれほど驚くにあたらないが、展示によるとシュタージは封書を破かずに開ける作業を自動で行うことの出来る機械を作っていた。

(写真:wikimedia commonsより。詳細情報はリンク先参照)
それでもうまくいかないものは、女性の作業員がアイロンを使って丁寧にのり付けをはがしたという。不都合な内容が含まれた郵便物は足止めされ、おそらくは将来、容疑者の逮捕に際して「証拠」として用いようと考えたのだろうか、全て保管されたらしく、その一部を見ることが出来た。更には、町に設置されたポストのほとんどは隠しカメラによって監視されており、だれが何時ごろそのポストに郵便物を投函したかが分かるようになっていたようで、その隠しカメラによって撮影された映像(おそらくはフィルムなのだろうが、それを静止画に落としたもの)をみることができた。他にも、電話局での盗聴の仕組みも展示されている。全ての電話回線にはあらかじめ盗聴用の副回線が仕込まれていた事等々。しかし、これらシュタージの「業務」のための仕掛けは、開発と維持運営に多大な物的人的な資源を費やしているのは明かで、そのエネルギーを別のところに向けられなかったものだろうかとあきれるばかりだ。そして、東ドイツの市民は自分たちがそういうふうに監視されていることを知っていたし、密告などを通した協力者も少なくなかった。それがどんな国であったのか、どんな社会であったのか、思い浮かべようとしてもまったく想像力が及ばない。もっと当時のエピソードなどについて詳しく知りたいと思わせる展示だった。

この辺りで、日が暮れてしまったのでホテルに向かって自転車を走らせる。宿はずっと西側のシャルロッテンブルグ駅のすぐそば。そこまで距離にして8Km程度なのであるが、旧西ベルリンの繁華街を抜けるハメになってしまって随分時間がかかった。季節はクリスマス前であり、土曜日の夜だったので多くの人がクリスマスマーケットやデパートなどに繰り出していた。

宿にチェックインした後、晩ご飯を求めて近所をさまよい、紆余曲折を経て結局スペイン料理の店に入る。気さくな店主のおじいさんはアントニオという名前らしかった。我々が予約無しで訪れ、二人なんだけど席ある?ときくと、ボーイさんがこのアントニオに「二人って行ってるけど座らせていいの?」とかいって確認しているようだった。店主は、"Reserviert" とかかれた席に我々を案内してくれた。いいのかな?と戸惑ったけれども、おそらく、気に入らない客が来たときにお引き取りいただくための方便なのだろう。タパスの盛り合わせを頼んだら次から次へとでてくる。普段はあまりお目にかかれない良い味のシェリー、それに各種魚介に大喜びしてはいたが、分量の多さにはあらがうことが出来ず、最終的には「締め」に頼んだパエリアの4分の1ぐらいを残してしまった。

(つづく)
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