SSブログ

アムステルダム(3) [旅行記録]

アムステルダム最終日。フライトは夕方なので、昼過ぎまでアムステルダムの観光をする。

あさチェックアウトをして荷物をホテルのラゲッジルームに預けて待ち歩きに出かける。劇場の裏の方にある、ポルトガルシナゴーグから見物を開始。
Ams19.jpg
すると、シナゴーグの近くで交通規制をしている警官にあった。ツレアイが、彼に「なんで交通規制してるの?」と訪ねると、この日はちょうどアムステルダムにおけるホロコーストの記念日かなにかだったらしく、町の中心からちょっと外れにある公演の記念碑まで追悼行進があるとのこと。しばらく突っ立っていると、行列がやってきた。
Ams20.jpg
Ams21.jpg
僕の記憶が正しければ、ナチスがドイツで勢力を伸ばし始めた頃、伝統的にユダヤ教徒に寛容な国々に脱出したドイツのユダヤ人も少なくなかったのだが、彼らが逃げてきた土地の一つがオランダ、なかんずく、アムステルダムだった(有名なアンネの一家もそうだった)。そういう事情もあって、アムステルダムから連れ出されていって悲劇的な最後を迎えたユダヤ人は少なくなかったのだろう。ポーランドほど強烈ではないにせよ、東ヨーロッパではホロコーストの話題はどこへ行っても避けては通れない重要な話題だと再認識させられる。

シナゴーグの中を見物。この立派な四角いシナゴーグは、17世紀後半の建物である。
Ams22.jpg
中の様子はこんな。今まで訪れたシナゴーグの中で一番大きいかもしれない。シナゴーグの歴史を説明するビデオを見てやっと、このシナゴーグがなぜポルトガルシナゴーグと呼ばれるかに気づいた。元々スファルディー (sphardi) とよばれるイベリア半島のユダヤ人たちが、カスティーユ=アラゴン王国のユダヤ人排斥政策によって追い出されて、その少なからぬ部分がオランダに逃げてきたという。これらのスファルディーの人々が作ったのがこのシナゴーグであるため、ポルトガルシナゴーグというんだそうだ。このポルトガルシナゴーグにいた人物の中で最も有名なのはおそらく思想家のスピノザだろう。スピノザの徹底的に形式的な形而上学的な思想は、もしかしたらユダヤのラビたちの理屈っぽい教義問答に根っこがあるのかもしれない。ちなみに、アムステルダムには、アシュケナージの人たちもいて、スファルディーの人たちとは協力したり対立したり、いろいろ微妙な事情もあったらしい。

シナゴーグのあとは、町の南側のカナルを散歩しつつ、レンブラントの夜警はやっぱり見ないと、といって美術館に向かう。美術館の前の通りで激しく傾いている家があった。
Ams23.jpg
赤い扉の家。これなんて梁が傾いている。こんなに歪んできたら扉とか窓とか開かなくなりそうだけど、どうするんだろ?
Ams24.jpg
美術館で絵を見終わったらもうだいぶいい時間になっていたので、ホテルに荷物をとりに帰って、ソコラヘンのアイリッシュ風パブ(!)でビールをいっぱいひっかけて家路についた。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

春のグランドツアーRosenmontag (02.23) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。