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冬のベルリン(3) [旅行記録]

ベルリン2日目(2008年12月7日)は、Deutsche Oper Berlinで観劇の予定であったので、旧西ベルリンの中心地区の周りを見物することにした。ベルリンはその分断の歴史故に、街の中にすべての公共施設が2つずつ以上あると言われる。オペラ劇場も、ウンターデンリンデンの Staatsoper Berlin が最も歴史が古く、他に Deutsche Oper Berlin や Komische Oper Berlin があり、Deutsche Oper Berlin は西ベルリン市民のオペラ鑑賞を支えてきた劇場である。

朝起きてから、朝食を宿で頂いて、とりあえずシャルロッテンブルク宮を見物する。シャルロッテンブルク宮はプロイセン王フリードリヒ1世の妃、ゾフィー・シャルロッテの為に17世紀末に作られた離宮である(当時、この場所はベルリンの城壁の外に位置する沼地であった。ベルリンの街自体がどんどん拡張して19世紀末頃までにはシャルロッテンブルクの周りまで市街地となった)。ベルリン中心地にあったプロイセンの王宮は第2次世界大戦でほぼ完全に破壊されてしまっていて跡形もない。
プロイセンの宮殿といえば、とりあえずポツダムのサン・スシ宮殿なんだろうが、それはまた今度ということで。
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元々離宮としてたてられただけあって、サイズもこじんまりとしている。宮殿前の小さな広場にはクリスマスマーケットが出現している。
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宮殿の門の中に入ると、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの銅像がある。1700年に造られたこの銅像は、戦争中、海に沈めるなどして破壊を免れたためとても良い状態で保存されているのだと言う。

宮殿の中は写真を撮ってはいけないことになっていたので写真が全然ない。宮殿とその庭園の各所へ自由に入場できるチケットを買って、まずAltes Schloss(旧宮殿)を見物する。これは17世紀末に元々たてられた部分で、その両翼に後の時代に Neuer Flügel(新翼)が付け加えられている。ちなみに、このシャルロッテンブルクも戦争での破壊を免れなかった。

(写真:wikimedia commonsより。詳細情報はリンク先参照)
現在見ることの出来る宮殿建物の細部は戦後の復興によるものだ。それでも、戦争中にこの宮殿やベルリン王宮から疎開された調度品などを備えることによって往年の雰囲気を推し量ることができるよう工夫されている。

旧宮殿は17世紀末の建造なのであるが、主にその調度品がかなりの割合でシノワズリー(中国趣味)であったことに驚かされる。シャルロッテはたいそう中国の磁器がお気に入りだったらしく、部屋の壁一面に磁器を飾り付けた部屋というのがある。空襲に遭う前にそこに飾られていた磁器は疎開したらしく、建物が回復された後元に戻して現在の姿になったようだ。とにかく大小様々の磁器がどう考えても元々意図されていない様態で圧倒的な分量で高い壁一面に飾られているので、とてつもなく妙な感じがする。中国風家具があったり、チェンバロの外側の装飾に中国風の絵付けがされていたりするのにはさほど驚かなかったけれど、この「磁器の間」だけはあんぐりと口が開いてしまった。

ほかにも、ナポレオンがプロイセンをやっつけてこの地にやってきたときに王女の使っていた部屋に何泊か泊まったのだけど、そのあとも王女はその部屋を使いたがらなかったために別の部屋を王女の寝室に作り替えた話とか、いろいろ興味深い話はあったように思うけれど、残念ながら英語のカタログがなぜか売店になかった(多分品切れなんだろう)ために、今となってはもう思い出すすべがない。旧宮殿がシャルロッテのわりと個人的な生活のために作られた場所であったのに対して、18世紀になって付け加えられた新翼の方は、大きな広間があったりしてより公的、政治的な目的のためにも使用することを念頭に作られたことがわかる。

シャルロッテンブルグの見学を終えたら昼ももうだいぶまわって、おそらく3時ごろだったろうか。宮殿のすぐそばの飲食店を見繕って食事をすることにした。あんまり深く考えずに入ったイタリア料理の店は結構あたりで、パスタ一皿をアイボーとわけっこして、さらに料理を一皿ずつ頂く。この旅行は、食事に関してはあたり続きだったと思う。

昼を頂いてからは、シャルロッテンブルグ裏の庭をちょっと歩いたり、ホーエンツォレルン家の霊廟をみたりなどして、日が暮れて(とは言っても多分5時ごろ)からいったん宿に戻る。

宿で着替えて、夜のオペラ鑑賞に繰り出す。今回は Deutsche Oper Berlin(ドイツ・オパー・ベルリン)のタンホイザー。Deutsche Oper Berlin の建物はビスマルク通りと呼ばれる大きな通りに面している。
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この場所に Deutsches Opernhaus ができたのが1912年のことで、現在の建物は1961年の完成である。
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内装からもそこはかとなく漂ってくる1960年代の西ベルリンの香り。音響はあまり良くなかったように記憶している。

上演前にピットからハープの音が聞こえてくる。タンホイザーでは、第1幕でのハインリヒ(=タンホイザー)の見せ場の一つでハープが大活躍するのだが、音量の問題で、2台のハープがかなり高速なパッセージをユニゾンで伴奏する。ハーピスト2人はこの部分の合わせをしていたのだった。

果たして上演の方はというと... 正直あまりよくなかった。さすがにハーピストの2人は気合いの入った演奏を聴かせていたが、逆に積極的に良かったとほめられるのはそれだけというか。オーケストラからは覇気もカンタービレも感じられず。コンサートマスターは見せ所のソロで音程がめちゃくちゃだったり。パッセージを途切れ途切れにしか処理しないオーケストラをバックに良い歌を歌えと歌手に要求するのは酷だろう。

演出も奇抜さを際立たせようとしてわけがわからなくなっている感があった。まあ、ヴェーヌス役のソプラノが第1幕で半裸で出てくるのはまあいいとして(もうここ10年か20年か、ヨーロッパのオペラ劇場での「進歩的な」演出では、歌手が薄暗い舞台に裸で出てくるのはほとんど常識の範囲内に属しているようだ。ということは、今日では裸で舞台に立てないとオペラ歌手になれないということで、なんともやは...)、ヴェーヌスとエリーザベトが一人二役で演出するのはどうしたものだろう。特に、第3幕の演出には難点があり過ぎだったように思う。ハインリヒの許しのために命を捧げるとヴォルフラムに告げたエリーザベトが舞台に倒れ込んだ後、絶望に打ちひしがれたタンホイザーが帰ってきて、やはりヴェーヌスブルグにもどるのだと錯乱する場面になるのだが、そこで、エリーザベトだったソプラノがぬすーっと起き上がって今度はヴェーヌスとしてタンホイザーを誘惑するのである。さらに、ヴォルフラムがエリーザベトの犠牲についてハインリヒに語るとわれに帰ったタンホイザーは自らの罪を悔いつつ息絶えるのだが、こんどはここで、ヴェーヌスとしてタンホイザーを誘惑していたソプラノの膝に頭を抱かれて息絶えるのである。ワーグナーの台本のプロットに隙があるのは確かで、ヴェーヌスとエリーザベトを同じ女性の2つの側面としてとらえることは可能であると思うが、「乙女の犠牲によるだめ男の救済」というワーグナーの最終的な筋書きを壊すような形での演出では本末転倒といわざるを得ない。ほかにも、巡礼の人々が地獄の業火に焼かれながら巡礼歌をうたったり、狩りの場面なのに鎧兜で身を固めた騎士(に扮する歌手)たちが銀塗りの木馬にまたがってゴロゴロと音をたてて引きずられて出てきたりと、大きな疑問符を付けざるを得ない場面が多々あったことも悪印象の原因。印象が悪いだけならいいけれど、こういう演出家のエゴというか、オペラの筋と乖離した演出は、歌手が役=歌に入り込んでいくのの妨げでしかないのだというように見えた。

まあ、オペラを見に行ってよいときもあれば悪いときもある。そんなものなのだろう。

オペラが終わったらもう11時回っていただろうか。遅めの昼をたくさん食べたとはいっても、何も食べないで寝たら夜中におなかがすいて目が覚めてしまいそうだったので、いろいろと迷ったあげく、ケバブの店でドネルケバブを買って(ナンのようなパンに野菜と肉がぎっしり詰まって2ユーロとかだった気がする)食べて就寝。

翌朝、電車の時間に合わせて朝食時間前の未明(とはいっても7時半とかだけど)に宿を出発する。ビスマルク通りからティエルガルテンを抜けて中央駅に向かう。早朝のジーゲスゾイレ
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ブランデンブルグ門も朝のたたずまいは少し神秘的だった。
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