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解決しないジレンマ [memoranda]

音楽というものは,およそ,うまいか下手かという基準で測るには適していないのではないかと思う.よくコントロールされていても退屈な音楽に満ちあふれたクラシック音楽の世界で,むしろあらがあっても輝いている演奏の方が自分は聞いててよっぽど好きだ,いや,むしろ,そういう演奏を渇望していると今日実感して帰ってきた.

そもそも,昔の大演奏家の録音なんかを聞いていると,今日の基準ではテクニック的には「傷物」と一笑に付されてしまうようなものがほとんどだ(歌手については事情が違っていて,昔の人の方があるいはテクニック的にも上かもしれない).彼らはテクニックもさることながらまずは音楽そのものから出発している.音楽に中身がなければテクニックや整理整頓された音楽には意味がない.でも,今日ではそれが逆になっている.テクニック的に整理されコントロールされた者でなければ,音楽性云々いう以前の問題だ,と考えるようになっている.

だが,例えば有名コンクールの優勝者とかを見ていても,テクニックを極限まで極めてその先にどんな音楽性があるというのか.みんながかなりの高水準のテクニックを持っていて,しかも同じレパートリーを共有してひしめき合っている世界で,心躍るような,あるいは,涙するような音楽がこぼれ落ちる余地があるだろうか.テクニックを極めた果てに人工的に付加された“オリジナリティー”はもはや元々そこにあったはずの音楽とは無関係のものになってしまっている.昔の大家はやっぱりすごかった,となるのは,彼らがテクニックの蓄積では乗り越えられないような,脳髄を直に刺激するようなインチューイションを持っていたからであり,テクニックはそれを助けるための副次的なものにすぎないように思える.僕のように音楽のセンスが乏しい人間には及びもつかないような深遠ななにものかがそこに隠されているのかもしれないが,どちらのあり方が「音楽的」であるかは明白なんじゃないかと思う.

でも,自分が音楽を演奏するとなると話は別である.自分がへたくそだとへこむ.自分よりも「うまい」人を見れば,ああ彼はうまくて自分は下手だとどうしても考えてしまうのである.人の音楽を評論するときには「うまいか下手かは関係ない」といっておきながら,自分が演奏する段になると,自分の上手下手のポジショニングのようなものを自分が率先してつけてしまっている.そして,自分は何故こんなに下手なのか,どうすれば上手になれるのか,となってしまう.ああ,なんという矮小な俗物根性!

最近,遅まきながらもしかしたらこれはたいへんな誤謬なんではないかと気づき始めたような気がする.まずは自分が,自分の上手下手を他人との比較で相対評価する事をやめなければならないのかもしれない.そもそも,最初から人と比較できるような技量などどこにもないのだから.よしんば,人よりもちょっと上手いぞと自己満足に浸っても,上に書いた意味ではまったくそれは非音楽的な些事にすぎないゴミのようなものだ(考えてみれば,数学も人との優劣を考えなくなって初めて少しはまともにできるようになってきたような気もする).もちろん,その演奏が人に聞かせるに堪えるものかという命題自体を否定することはできないし,自分自身の演奏の内容に対する厳しさのようなものを放棄しては音楽の体をなさないだろうけれど,僕のように生まれつき絶望的に不器用でテクニック的な伸びしろがほとんどない人間は,他人をさえそれで測らないような「上手下手」の基準で自分を測ってしまっては絶対に音楽で幸せにはなれないし,音楽をする事自体が嫌になってしまうだろう.もし愛好家として音楽を続けていくのならば,他人との比較ではなく,自分がどういう音楽をやりたいのかを絶対的な基準でもって見つめ続ける強さが必要そうだ.

今日の演奏の自己採点は,他人との比較ではなく,65点.
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ヴォルフィ

とっても共感!!!!!

by ヴォルフィ (2010-12-29 00:03) 

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