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幻想の家族 [評論]

選択的夫婦別姓を推進する民主党が政権を取ってにわかに日本における法的夫婦別氏の可能性が増してきたといわれる。もちろん、これを法案として政府が国会に提出できるかどうかもまだ不透明ではある。これに関してNHKが放送した特集番組を見た。知識として知っているつもりではあったが、この選択的夫婦別姓に反対する人々の訴える理屈に、改めて社会の病理をみたような気持ちがする。

曰く、夫婦別姓を許してしまえば日本が伝統的に立脚してきた夫婦同姓による家族の一体感が失われ、家族崩壊を招くというのである。申し訳ないが、ここには少なくとも3つの誤解と誤謬がある。

まず始めに、日本における夫婦同姓は明治政府が戸籍制度を開始したのと時を同じくして始まっており、その歴史は浅い。江戸時代はほとんどの平民はまずもって姓・名字を名乗らなかった。歌舞伎や文楽の平民登場人物は多くの場合姓ではなく名前でアイデンティファイされる(さらに中世までさかのぼれば、文才で名をなした貴族女性ですら、誰々の娘、誰々の室といった風にアイデンティファイされていて、まず名前をまともに名乗ることがなかった)。明治政府が明治3年に「平民苗字許可令」を出した5年後の明治8年に「平民苗字必称義務令」で名字を名乗るように強制したことからも、明治初期の庶民には名字を名乗るという意識がきわめて希薄だったことが伺える。もちろん、イエ制度やそれに伴う婚姻の実態がどうであったかという詳細な検討をしないならあまり強いことは言えないけれども、同一の姓を名乗ることをもって夫婦や家族の一体感の証とする考えは日本においては高々百数十年の歴史しかないと言っていいと思う。

明治政府が名字を名乗るように強制したこと、また、婚姻に伴って改姓する制度にしたのは、おそらくヨーロッパの民法典を輸入・移植するという大きな流れの中でおこったことである。江戸時代に幕府がそのイデオロギーとして採用した儒教では、父系家族の絶対性により、女は嫁入りしても決して夫の姓を名乗ることは許されない。たとえば、韓国では最近までこの制度が維持されていたし、中国でも今日も夫婦別姓が基本である。一方、ヨーロッパでは12世紀頃から、結婚によって女性は夫の姓を名乗るよう教会が強制したことからこの習慣が始まったといい、市民革命以後ほぼ完全に世俗化した19世紀でもこの習慣は民法のなかに生き残っていた。夫婦別姓が一般化したヨーロッパの方が実際は夫婦同姓の長い歴史を持っているのである。こうしてみれば、明治政府としては儒教的な家父長制を基本としつつ、西洋的な戸籍概念にマッチさせるために姓を名乗ることを強制し、夫婦同姓の制度を導入したのだと考えられる。夫婦同姓に基づく家族が日本の伝統的な価値観であるというならそれは誤りで、夫婦同姓が日本の家族の一体感を支えてきたと主張するにしてもそれはこの百数十年足らずの間を除けば無効である。

しかし、その明治以降百数十年の間、本当に家族が同一の姓を名乗ることが家族の一体感の根拠だったのであろうか?夫婦が同じ姓を名乗ることを強制する現行の制度においても家族は確実に崩壊している。今日では離婚は珍しいことではないし、家庭内暴力、引きこもりなど家庭におこる問題は夫婦同姓である現在でもすでに大きな問題として立ち現れている。それどころか、少し裕福であったり伝統のあるイエ同士の結婚では、息子が二人いれば養子制度を用いるなどして、その一方を父方、もう片方を母方の姓を名乗らせるようなことは戦前から一般的であった。家族が同じ姓であることが家庭の一体感の最も重要な柱だと主張するならばこのような抜け道は許すべきでないのであり、婚姻に伴う改姓が元来より家族の一体感を目的としたものではないことがわかる。あるいは、ほとんどの日本国民は母方の祖父母と本人は同じ姓を分け合っていないけれども、その分父方の祖父母よりも母方の祖父母の方が疎遠に感じる感覚がごく一般的だ、などという話は聞いたことがない。どの姓を名乗るかというのは原理的に文字通りノミナルな(名目上の)問題であって、家族環境の実態と不可分のものであるはずがない。実際、僕の意見では夫婦別姓は、個人のアイデンティティーというよりはむしろ、晩婚化が進む社会の中で結婚すれば改姓しなければならないというルールが現実にそぐわなくなっている、そのことを実利的な側面から負担に感じる人が増えているから、姓を変えない選択肢も作ってより合理的にするのだ、という観点からとらえられるべきだ。極端な話、旧姓の使用ないし併記が戸籍の表記以外の実生活上の法的な場面(契約を交わす、住民登録をする、運転免許を取る、銀行に口座を作るなど)で認められるのであれば、戸籍の姓を形式的に書き換えるかどうかなんてどうでもいい。

百歩譲って家族が同じ姓を分け合うことが家族の一体感の根拠だという考え方があることを認めたとしても、そのように考える人々が日本に国籍を持つすべての人間に同じ考えを強制することに妥当性はない。選択的夫婦別姓はあくまでも選択的なのであって、姓が同じじゃないと家族になった気がしないというならばそういう人たちは夫か妻が改姓して同じ姓を名乗ればいいだけの話で、隣の家族が別姓を名乗っていても彼ら/彼女らには思想上も実際上も何ら不利益はないはずである。それどころか、国際結婚においては日本の法律は夫婦の同性を強制できないのであるから、日本国籍のもの同士の結婚においてのみ夫婦の同性を強制するのは法の下の平等に反しているとさえ言える。

あえて言えば、こうして考えると夫婦の同性、家族が同じ姓を名乗ることが家族の一体感を支えているというのは全く論理的に自明な主張ではないし、普遍的な要請でもない。これは一種のクレドである。件のNHKの番組に埼玉大学の某教授がでてきて、「どの姓を名乗るかというのは個人の自由のはずだと勘違いしている人が増えているようだがそうではない」とか「民法は国のあり方を決める重要な法律だから、軽々に改悪すべきでない」というようなことを言っているけれども、驚くべき蒙昧ぶりだと思う。彼女の台詞は知識人のそれというよりはむしろ宗教家の言動である。そういう人々の政治姿勢は、例えばイラン・イスラム共和国やアフガニスタンのタリバーンと似たり寄ったりである。

ここでいつものテーゼ「保守とは現代の宗教である」に戻ってきた。保守とは変化を恐怖する人々のための宗教である。例えば、保守の人々が夫婦別姓に反対するのは、変化を恐怖するからである。日本の社会は近年特に大きな変貌を遂げた。経済・社会の仕組みが大きく流動化したのである。会社に入って定年まで働くとか、年長者の意見には間違っていても従うとか、そういうソリッドで一様な社会システムを維持することはできなくなっている。社会は流動化している。保守思想の持ち主であっても、人生の多くの場面でその流動化に適応することを求められている。その中で、婚姻による改姓は「古き良き時代」から変わらなかった数少ない要素だ。そういう法制度が元々の制定の意図とはある意味無関係に与える幻想の家族像にすがりつく考え方は自閉的で後ろ向きである。日本の人々の少なくない数がそういう考え方をするというのはある意味、日本社会の自閉性、勢いのなさを表している。多様性が未来の活力を支えるならば、家族のあり方にたいしても多様性を許容するのがあるべき姿である。それが許容できない考え方の人間が多くを占める社会は硬直的であり、衰微を余儀なくされるであろう。

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