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ひきこもり・隠遁・亡命 [評論]

東京に戻ってきてからそろそろ半年経とうかという今日この頃。決められた用事がなければ外出せず、一日家にいる日も多く、隠遁者のような生活になってきている。現代用語では「ひきこもり」というのだろうか。しかし、社会との接点を断たれあるいは自ら断って生きている人間をひきこもりと称するならば、古来より人里離れた場所に庵や修行場を自らもうけてくらした隠遁者たちはなべてひきこもりということになるのだろう。

しかしながら、「ひきこもり」はある種、思考の深化のためには欠かせない面がある。活発な議論が新たなアイデアを取り入れるチャンスとして有効であったとしても、それを自分自身が内面で深化させるための時間はどうしても必要だ。逆に、あまり人から意見されすぎると自分が行くべき道を見失いがちである。

いまさらの感もあるが、エドワード・サイードの知識人とは何か(Representations of the Intellectual の日本語訳本)を読んだ。BBCで1993年に放送されたラジオ講演のための原稿をまとめたこの本は、現代において知識人が取るべき態度について論じたものである。あまりにも有名な「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」というのもこの講演の一節だ。

パレスチナ人のキリスト教徒として生まれたサイードは、エジプトで学んだ後アメリカに渡り、アメリカで英文学・比較文学者として活躍した人物である。上に引用した有名な台詞を僕が初めて聞いたのは高校生の頃だったか、あるいは、大学の1年か2年の頃であっただろうか。はっきり言って何を言いたいのかピンとこなかった。それどころか、サイードが自分の出自・生い立ちに照らし合わせて手前味噌的に言っていることなんじゃないかとさえ思った。

しかし、研究をして生きていけたらいいなと考えているうちに、大学で働けなければどこでも雇ってもらえないような経歴や性質の持ち主になってしまった今、やはり自分のような人間が社会の中でどういう位置に立つのか(どうやって「役に立つ」=いかにして実利的な生産をするのかではなく)と問いかけるのは避けて通れないことだ。そうして、思い出したようにサイードを読んだのである。

ときおり、数学者でない人と出会って、「仕事はなんですか」とか聞かれて、「数学の研究しています」なんて答えると、まず大概言ってる意味が分からない、というような顔をされて、「数学の研究ってどういうことをするんですか、例えばどういう役に立つのですか」などと聞かれる。あるいは、昨今の競争的予算を獲得するために、大学の教授たちは数学の研究がどれほど現在未来にわたって経済や生活の役に立つのかを言葉を弄して説明しなければならなくなっている。整数論や代数幾何の専門家であれば、たとえばこれらは暗号や符号といった、電子通信で欠くことができない技術に重大な応用がある、あなたがインターネットでクレジット決済をするその瞬間にも我々の数学は役に立っています、と答えるのはもはや一種の紋切り型になってしまった。NHKのリーマン予想の番組ですら、素数分布の問題をRSA暗号と関連させて視聴者を納得させようとしていた。

しかし、このような説明は実は正しくないんじゃないか。あるいは、最善ではないようにおもう。数学に関して書かれた論文は、純粋数学・応用数学の別に関わらず、ほとんどが直接実生活の役に立つようなたぐいのものではないからである。もちろん、役に立つ方向に向かってごくわずかな前進はあるのかもしれないが、それが数学者の存在意義を担保するほどのものであるとはとても思えないし、数学者がそれを目的に研究をしているなんてことはありえない。整数論や代数幾何が暗号論に応用を持つとすれば、それはそれ自身数学的見地からきわめて興味深いことであるが、それ自身は数学の到達地点にはならない。これは、多くの数学者が共有する実際的な感覚じゃないだろうか。

かといって、それじゃあ数学者なんていらないじゃないか、まあ、お金に余裕があって勝手にやるのはいいけれども、それ以外の数学者に給料を支払い、政府が研究補助金を与えるのは単に無駄じゃないかと、そう指摘するのであればこれも安易で著しい誤謬である。歌手が歌を歌うことや芸人がテレビに出てきて馬鹿げたことを言うことに何の意味があるのだと問うことに似ている。歌手や芸人同様、数学者は数学者として存在していることそのものにある一定の社会的な意義があるのだとするのが一番無理のない考え方であると思う。いやまて、歌手や芸人は売れなければやっていけないけれども、学者はそうじゃない、というかもしれないが、これも決定的ではない。誰でも学者になれる訳ではないし、ましてや、(大部分の学者は)賄賂なんかの不正な手段によって学者になるのではなく、それなりのクオリフィケーションを獲得したのちに学者となっているのだから。

それでも、これは数学者にとっての免罪符ではない。数学者個人が社会の中でどういう立ち位置に立つのか、どういう役割を演じるのか、という能動性の問題は全く別の話である。もし数学者も「知識人」の一種だと考えるのであれば、サイードの語るように、社会においては告発者であるべきなのかもしれない。しかし、数学者は政治や社会について精通している人間ではないので、人文系の学者のように振る舞うのは難しいであろう。安易に社会的な発言を試みれば、ともすればほとんど論理も含蓄もないような文章でもって国家の品格を云々するようなことになり果ててしまう。数学者の社会への還元はおそらく教育を通して行われる部分が本道なのであろう。社会への影響力を鑑みれば、大学での教育よりは中・高の教育の方があるいは重要性が高いとも思われなくもないのだが。いずれにせよ、僕のように二流の、一流ではあり得ない数学者は研究バカであってはならない。教育においては、数学の知識ではなく、教師自身の人間そのものが問われる。言い換えれば、自分の専門以外であっても手のとどくあらゆる物事に対して思いをいたし理解を深めていかなければならないのだろう。そして、数学者は昨今世間で流通しているステレオタイプと大して違わないような世間離れした変人だというのは間違ったことではないのだから、数学者の存在自体が現代の通俗的な社会からの「亡命者」なのである。そういうひきこもりで隠遁で亡命者な数学者の風変わりな目線から眺める世界の地平がどう見えるのか、たとえ自ら積極的に語らなくても、問われれば答えられるぐらいのものがあるのが良いのだろう。

いずれにしても、サイードの本は15年以上経った現在も色あせることなく、それどころかより色鮮やかに知識人、あるいは高等教育を受けたものたちが熟考すべき問題を提示している。知識人の専門バカ化、視野狭窄は甚だしいものがある(最近読んだ中では、これもまた有名な Socal の Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science もきわめて示唆的だ)のだが、これは必ず是正すべき問題である。これは、知識人を常識にかなった人間に改造するという問題ではない。俗物根性を捨てて厳正なる変人であれと叱咤することである。

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