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絶望のようなもの [評論]

ちまたでいまよく聞かれる、あるいは、あまり愉快ではない風に流行している「仕分け」だが、僕個人もこの問題に割と近い関係にある。行政刷新会議のシワケでは、国の文教予算をことごとく減額または廃止する決定が下されたのは、スーパーコンピュータを筆頭としてそれなりに新聞紙面をにぎわしている訳だが、僕の目下の給料の出所のグローバルCOEプログラムも3割程度削減と判定されたからである。昨日、本郷キャンパスでこの決定に抗議する記者会見とやらがあり、場を盛り上げるためとでも言うのだろか、GCOEにお世話になってるものとしてはとりあえずみておこうかということでいってみた。その結果、早く言ってしまえば全くの絶望のようなものを心に抱いてかえることになったのだけれど。記者会見とは言いながら、新聞各社はじめマスコミも「もうこの間ノーベル賞の学者が出てきてやったじゃない」というかんじで、あつくなっているのは大学関係者ばかりだという感じがした。

記者会見をしている学者の方も、研究や教育の実際的な問題を指し示したり、OECD各国の中で日本の科学振興予算は最下位だといった話を持ち出しながら、いかにGCOEの予算を削減することが暴挙であるかを論じようとしていた。もちろんこれは研究に携わるものの立場からは自然かつ当然のアプローチではあるのだが、そのままでは永遠に文教予算を削ろうとする政治の立場とかみ合うことはないのだろうな、と思ったのがまずは大いなる絶望のようなものの引き金だった。

この問題の根底にあるものは何だろうか。その一つとして、自分が理解できないものへの憎悪、あるいは、無関心があると思う。学者たちが大学で行っている研究はいわば最先端の研究であるから、その本性からいってそれらトピックの大部分が専門外の人間たちにはそう簡単に理解できることではない。数学者だって、自分の専門と全然違う専門の人の話は宇宙人の話のようにしか聞こえないこともままあるのだから、数学の教育を受けていない人にとっては今日の数学の研究の話など何がなんだかチンプンカンプンなのは当然で、同じことは他のほとんどの分野について言えることだろう。人間というのは実に了見の狭い生き物であるので、自分の理解できない事柄を憎み、良くても無視する、そういう習性を持っている。だから大学でなんだかよくわからない「虚学」をやるのにそんな大金をつぎ込む必要なんてない、という命題に対して、多くの人が疑問を持たないとしても不思議ではない。あるいはそういう主張を共感とともに肯んじる向きもあるだろう。

しかし、それではなぜ大学で基礎学問の研究というのが行われるようになったか。一つはもちろん、王侯のパトロネージによる研究の延長としての側面があるにはある。しかし、中世ヨーロッパに端を発する大学の歴史は、人類社会の高度化とともに、複雑化した社会を支えるのに必要となる専門職を供給するという要求に応えるという出発点を持っている。はじめは、神学、法律学、そしてやがて医学といった分野がはじめに大学で教えられた訳であるが、その守備範囲はすぐに諸科学の分野にまで広がっていった。近代国家の成立とともに、大学は国家に不可欠な機関の一つとして重視されるようになった。米国や欧州、また韓国や中国でも分野に偏りがあったとしても、巨額の国費を大学や高等研究機関につぎ込む理由はまさにそこにある。それは国策なのである。

僕はどちらかというと現代において国家の役割が実際上も思想上も大きくなることは好ましくないと思っているので、日本という国家も諸外国と競って高等研究教育に何が何でも多額の予算を割いて技術開発を行うべきだとは必ずしも主張しない。日本という国家が世界最高レベルのスーパーコンピュータを必要としないというのであれば、それが多くの国民の合意であるというのならばそれに何が何でも反論する理由はどこにもない。ただし、それを選択するのであれば、経済大国だとか技術立国だとかいうような言い方は封印すべきだし、G8とかそういう(元々あまり気分の良いものではない)ものに参加するべきではない。国連常任理事国入りなどもってのほかで、これからは適当な二流国家でやっていきますという態度を取るべきだ、となるだけの話だ。

日本の国がどうなろうが知ったことではないとは言いながら、しかし、日本の領域の上で、日本の社会の中で生きている人間としてはやはりこの問題に無関係を決め込むわけにはいかない。なぜならば、現代の社会生活はあまりにも多くの専門技術によって支えられており、それは日本の社会も例外ではないからだ。社会が高卒や、良くても大学学部卒程度の人間ばかりになってしまったらこの社会システムを維持していくことはきわめて困難なのは火を見るよりも明らかなのに、部分的には少子化、また日本社会の老人化のためにこれを支えるべき人材は明らかに不足する傾向になっているように思う。政治家の政治オタク化にもその一端が現れているが、経済や技術の分野でも似たような現象はおこっているだろう。大学こそがこれらの専門知識を守り、育てることができるほとんど唯一の機関である。企業の方が実際的な研究を行っているとの主張もあるかもしれないが、企業が利益の範囲内で行える研究はこの世の中を支える技術や知識のごく一部をカバーすることしかできないし、それを再生産する教育を広く行ったりできないことに注意しなければならない。その大学を弱体化させれば、あっという間にあまりに複雑すぎる社会の仕組みを支えきれなくなり、社会の活動は急激な縮小を余儀なくされるであろう。日本の街角を歩き、電車に乗って感じる閉塞感、窮屈さは、既にこの爆縮が始まっていることの反映だと思える。

現代社会を支えるためには大学のような高等研究教育機関の重要性はますます大きくなっている。用いられる技術も細分化しているのだから、それだけ多くの専門家が必要になる訳で、高等研究教育により多くのコストがかかるのは当然のことであるし、それは社会が当然支払うべき対価なのだというのは、現在の世界で普遍的に通用する見識であると信じている。それを例えばGCOE予算で大学院生やポスドクに給料を支払うことをもってして「(なりそこないの研究者であるところの)ポスドクの生活保護のような制度」とする仕分け人(これを言ったのが誰だか僕は知らないが)の現代人としての見識を疑いたい。これらの人々は社会が必要としている専門家のプールであり、専門家の再生産の最も重要な源泉であるという認識すらないのに仕分け人ですと言って出てきて批判を加えるなど許されることではない。

日本の政治家は、自分よりも年上の政治家のやってきたことをそのままコピーすることで、少なくとも表面上はあるていどの見識を維持してきたのだろうが、小泉の登場以来、これらの見識を片っ端から否定することが「改革」だという風潮が広がり、政治家の低学歴化と比例するかのように、社会的見識が日本の政治から追放されてしまったように見える。政治が無教養化してしまったとも言える。中学で教える民主主義の仕組みを盲信するならば、政治家は有権者の付託にこたえて社会の安定と発展に寄与すべく努力するべきものであって、社会の破壊者であってはならない。見識を発揮して社会を正しい方向に導くことこそが政治家の仕事である。

しかし、いくらそれをいってみても、これはもはや抗いがたい物事の流れなのかもしれない。そうだとすれば、考えたくないことだが、以上の議論から出てくる明白すぎる帰結として、僕個人が日本の社会にとどまることが妥当なのかという根本的な問いにたどり着かざるを得ない。あるいは、その問いに対してあまりも自明な回答、それこそが絶望のようなものの正体なのだろう。

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