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グローバリゼーションは何をもたらすのかな [評論]

むかしNHKの番組で映像の世紀というのがあった。1995年〜96年の番組なので、もう13年も前の番組で、これが最初に放送されたときは僕はまだ高校生だったということになる。しかし、当時この番組を見て酷く引きつけられたことは今でも記憶している。

今、これら20世紀前半の映像を見るとき、そこから伝わってくる物質的繁栄、喧騒、それから、不安、敵意。そうしたものが他人事のように思えないのである。番組制作上の脚本や音楽などの様々な効果による影響を最大限差し引いてみても、前世紀と今日の何かがパラレルに見える。世界の情勢は100年前とはこんなにも変わってしまっているのに、どうして映像の中に漲っている空気が今日の世界の空気と共鳴しているように見えるのかだろうか。

今世紀は、グローバリゼーション、あるいはグローバリズムの時代だと言われる。それはその通りだろう。そして、その「グローバリゼーション」と最も強く結びついているのは経済だと言って間違いないだろう。「グローバリゼーション」の諸現象のなかで、経済にかかわるものだけがある種突出して先行しているように見える。それは、今日を生きる我々にとってどんな意味を持っているだろう。

経済のグローバル化がどうして必要だったのか、どういう過程をたどってそうなったのかは良く知らない。それが自然な流れだといわれればそうなのかもしれないしそうでないかもしれない。では、経済のグローバル化は僕たちの世界に何をもたらしているのだろう?去る2年間の韓国ウォッチング中の僕のささやかな思考を織り交ぜながらちょっと考えてみたい。

まず初めにひとつ思いつくのは、政治の終焉である。いわゆる「民主主義」を標榜する国家では、国民が投票を通じて政治的な意思表示をし、これによって行政が行われるというわけだ。しかし、グローバル化された経済の下では、これら国民たちに政治的な選択の余地は無いのである。この間まで10年続いた韓国の左派政権がIMF通貨危機の後遺症を引きずるように、新自由主義的な経済政策を続けたことはこの例として取り上げることができるとおもう。あるいは、本来なら左派であるブレアーのイギリス労働党が「第3の道」と称して、主要な経済政策は新自由主義的(保守主義的)であったことも、80年代までの「右派・左派」といった区分が消滅したことを象徴している。日本の政治状況においても、2大政党制を導入すると言って小選挙区制度にしたものの、グローバリゼーションのなかで日本の経済政策の根幹にかかわる論争が行われていない、行われ得ないこともこの観測に合致しているように見える。結局、各国の政府は新自由主義的な開放緩和政策以外の経済政策をとることは出来ないのが今日の状況だと思う。もし、違う政策を行おうとしたなら、通貨や国債、あるいは株式と言ったグローバル市場からの圧倒的な圧力がかかり、その国の経済は大きく冷え込むことになるだろう。

経済政策へのこうした「神の見えざる手の束縛」は、結局政治の無力化を意味している。あらゆる政策は経済的な裏打ちが必要だから、その政策とコンシステントな経済政策を必要とする。しかし、経済政策の選択肢が限られている状況では、とれる政治の選択肢にも限りがある。盧武鉉が韓国で雇用対策を行えなかった理由はまさにここにある。盧武鉉政権末期には「놈현스럽다(ノムヒョンスロプタ:盧武鉉っぽい)」という新造語まで現れたが、これは無為無策を表す形容詞である。しかし、見方によっては盧武鉉が無能だったから無為無策だったのではなく、事実上打つべき選択肢が彼の手許になかったとも言えるのではないだろうか。国民たちも、経済の善し悪しは自分の生活に直結するという意識があるから、経済をよくすると言う留保付きにせよ、しばしば強権的志向を持つ保守主義者に迎合的である。レーガン・サッチャーの登場が既にそれである。韓国の人々は、保守主義者の軍事政権に長年苦しめられてきたにもかかわらず、李明博政権誕生前夜にはあれほど軍事政権時代へのノスタルジーに満ちあふれた保守色の強いハンナラ党と、そのハンナラ党の候補である李明博を熱烈に支持していた。李明博政権誕生時の韓国の世論形成を目の当たりにして、選挙を通した民主政治の死を肌で感じる思いがした。

第2次大戦後の30年間は、自由主義陣営にとっても社会主義陣営にとっても、国が自国の経済を管理し、コントロールすることで国家社会の安定を実現しようとした時代だった。自由主義陣営においても、社会民主主義的な政策と、十分流動化されていない国際経済の情勢によって、経済は多かれ少なかれ政治の管理下にあったのであり、それによって、戦争の主体であるという意義を失った国家も積極的に新しい機能を果たし、存在意義を主張してきた。小さな政府の流行後は、国家は国民の福祉を保障しなくなった。ただ治安を維持し、経済活動の妨げとなるものを排除するだけの資本家の自警団のようなしくみに退行しつつある。

そして、空洞化した政治を埋めるものとしてナショナリズムが台頭しているように見えてならない。日本で言えば「新しい歴史教科書」に象徴される歴史修正主義の台頭、国旗国歌、愛国心教育の問題と、僕に言わせれば目を背けたくなるようなナショナリズム台頭の話題に事欠かない。それは韓国でもおそらく同じで、日本の占領下での国家犯罪を感情的な形で喚起させることによって成り立っている反日愛国教育、독도(独島)=竹島問題や、国際的な海図で Sea of Japan (日本海)となっているものを韓国式に East sea(동해:東海)と改めるよう求める運動などこれまた枚挙にいとまが無い。あるいはヨーロッパでおきている外国人排斥、そして、9.11以降のアメリカの「テロとの戦い」も一種のナショナリズムとして位置づけていいように思う。

しかし、これらのナショナリズムは、原理的に、前世紀的な意味で世界の情勢に寄与することはない。いくらその国のナショナリズムが高まったからといって、その国のヘゲモニーの拡大に現実的に寄与することはありえないのである。それどころか、グローバリゼーションの時代の国家は、グローバライズされた資本家たちの利益の最大化に奉仕するための機関となった。だから、今日の国家は自国の資本家の代理人として争うことはあっても、国家単位の覇権の拡大には実は無関心に見える。ある国家が覇権を拡大させようとすることが、往々にしてグローバルな経済活動にとっては不利益になるからである。だから、今日的なナショナリズムは、グローバル化された世界で翻弄される人々への宗教・自慰装置として専ら特化されている。それどころか、昔も今も、ナショナリズムは「国民」に「国家」という疑似的実体ヘの一体感の夢をかわらず見させるわけであるが、今日においては、元来覇権の担い手としてのみ可視的であったナショナリズムの愛の対象としての国家自体が覇権を放棄して空洞化してしまったという意味において、ナショナリズムの見せるこの夢は20世紀のそれにも増してより欺瞞的でより詐欺的な幻影なのである。しかし問題は、ナショナリズムがつねに攻撃性、排他性を発動するところにあり、まず最初の段階としては自らの属するナショナルなもの外に属する他者に対する暴力として発現する。これらの暴力的は一旦解き放たれたら、単なる自慰の範疇を遥かに超えて世界を蹂躙し得る、人間の手に負えないものだということは、これもまた、歴史が証言するところのものではないだろうか。これを放置してどんどんと膨張していったならば、どんな酷いことが起こっても不思議ではない。それに、例えば(一部の)アメリカ人の自慰のために、アフガニスタンやイラクの人々が犠牲になるとあっては、これほど馬鹿馬鹿しいことはなく、憤懣やる方ないことに限りがない。

そんな馬鹿馬鹿しさと危険性をはらむナショナリズムの台頭は、おそらく、グローバリゼーションの影響として現れたのではなく、初めからグローバリゼーションの中にビルトインされた、グローバリゼーションのプログラムを構成する密接不可分の要素だったのだろう。新自由主義は、片方の手で自由化、あるいはグローバリゼーションと称して経済活動の障壁を破壊しておいて、もう片方の手でナショナリズムを刺激し、新自由主義がもたらす競争、格差、失業といった社会不安の埋め合わせにしようとしてきた。これは80年代のレーガン・サッチャーの政策から一貫して変わることがないように見える。グローバリゼーションは、棺桶に封じ込められたはずのナショナリズムというゾンビに新たなミッションをあたえ、自らの利益に供させるべくこの世に解き放ったのである。

20世紀前半には世界には大変な惨状があり、それを教訓として、20世紀後半には社会の安定させるために政治が市場に介入し、実際社会の安定をある程度実現していた。それが誰かの企図であったかどうかは別にして、グローバリゼーションは、この社会の安定のための政治の市場への介入を極めて巧妙に帳消しにした、なかったことにしたのである。なぜなら、グローバライズされた経済を統制する政治的な機関は存在せず、一度グローバル化された世界では、国単位で新自由主義的政策を取りやめ、グローバル化から逆戻りすることはもはや不可能だからである。そして、グローバリゼーションはその従者として、ナショナリズムという名の不安と敵意を従えている。グローバル市場は、19世紀から20世紀初頭にかけてローカルに存在していた複数形の「市場の自然状態」を、単数形のそれとして復活させているのじゃないだろうか。だから、そこから来る繁栄と喧騒、それから不安や敵意は20世紀初頭のそれと、存在形態こそ異なるものの、相似形をなしているのだろう。

それゆえに、僕は、ナショナリズムを嫌悪する立場にありながら、ある種逆説的に、グローバリゼーションそのものに疑義を挟み、異議を唱えていかなければならないのかもしれない。でも、本当はどうなのかまだあまりよくわからないでいる。
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